時代を超えて酷評される新聞文体

もうたいへんいまさらながら、『論文の書き方』(清水幾太郎・著)を読み始めた。まだ前半ではあるのだが、以前読んだ本とまったく同じことが書かれていて思わず笑ってしまった。

新聞の文章は現代の美文である。少し前に、わたしはこう書いた。「文章を書くときは、多少の差し触りを覚悟してかかる必要があるであろう。」主語がハッキリし、肯定か否定かがハッキリすれば、とかく、差し触りが生じ易い。ところが、一般に新聞の文章は差し触りを避けた文章なのである。新聞の文章といっても、日本の普通の大新聞の文章のことであるが、これは、或る特殊な事情の上に成り立っている文章なのである。簡単に真似してよいものとは言えない。
(清水幾太郎『論文の書き方』 p.45)

何があった、ということは報告しているが、それを見てどう思ったかは書かない、というのが新聞記事の約束なのだ。だからまるで、天から神様が見て書いたような文章になる。
「としている。」とか「などと話しているという。」、「との見方もある。」といった、自分の判断を書くのではなく、私は風評をまとめているだけ、という書き方は、普通の文章でやったらとてもおかしい。
《中略》
新聞記事の文章とは、特殊な職業文なのだ。あれを読まない方がいいとは言えず、もちろん読まなきゃいけないが、文章を書くときにめざすものではない。自分の立場や見解は出さない、なんて文章を一般人が書かなきゃいけない理由はないのだ。むしろそういうことを表現したくて文章を書くのだから。
(清水義範『大人のための文章教室』 p.114~115)

かたや1959年初版、かたや2004年初版。45年経っても、いや今も新聞文体の本質は変わってない。

新聞の仕事をする機会も多く、職業エディター&ライターとしてはクライアントが求める文体で商品を納めるのが務めではあるのだが、過剰に毒されることのないよう自分の中で手綱を引いておかねば。


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