元木昌彦『週刊誌は死なず』

例によって付箋をつけたところをメモ。

  • 1990年代の終わりから現在まで、メディア規制といわれる表現規制の大きい流れが日本を覆っている。規制する側は新聞やテレビキー局などメインストリーム系のメディアではなく、ちょっと差し障りのあるところにお灸をすえてやろうという流れが顕著になってきたと感じる(シンポジウムでの田嶋泰彦氏の発言要旨)。
  • 売れるためにタイトルをどうするか。原稿を読んで麻生首相の発言が面白くない場合、例えば田原(注:総一朗)さんの質問をタイトルにしてしまう。「田原総一朗『麻生さん、あなたが辞めるならGDPが1%上がるんですよ』」なんてタイトルにしたら売れるかもしれないな、と(『週刊ポスト』元編集長・海老原高明氏の発言要旨)。
  • 日本の新聞は「客観報道主義」が建前だが、実際に記事を書いている現場の感覚でいうと、ほとんど当局依存報道である。報道する側の記者個人の判断とか、個人の思想とか主体性というのは問われない感覚になっている(元共同通信記者・魚住昭氏の発言要旨)。
  • 容疑者逮捕の警察発表をそのまま発表して、不当逮捕が判明したら、今度は、警察を批判するだけで、自らを省みない記者たちのなんと多いことか。
  • オウム(真理教の報道)に関して、その大半は公式発表ではなくリーク情報によるもの。断片的なリーク情報をもとにした報道では事を煽るだけで、そこに憶測が加わると真実からどんどん離れていく結果になる(『週刊現代』1996年1月13・20日合併号における本田康春氏の発言要旨)。
  • ネットがテレビと同じ、安価に楽しむ庶民の娯楽であり続けるなら、新聞は「質の高い情報を買う」人びとを少数でも確保していくことが大事(山本一郎『情報革命バブルの崩壊』より)。
  • 名誉棄損裁判では、裁判官は最初から「メディアは有罪」という予断を持っているとしか思えない。
  • いつも週刊誌が負けてばかりいるという「風説の流布」がまかり通っているのだろうか。それは、週刊誌が敗訴したときは書くが、勝訴したときにはほとんど書かない、新聞によるところが大きい。
  • 独断でない判断はないし、偏見でない意見なんて実際あるかね。まして他人に誠意をもって話しかける出版物では、そうでなければ共感の場所もないじゃないか(木滑良久『編集者の時代』より)。

関連図書として以下の2冊。

  • 梓澤和幸『報道被害』
  • 田中森一『反転』

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