ども。鉄王です。

以前、マインドマップで描いていた読書記録。ちょっとスタイルを変えてみました。読みながら付箋をつけた箇所を抜き書きしていきます。読書メモにもなるし、親指シフトの練習にもなるしで一石二鳥。

ほんとうに学ぶということは人に教えられることではなく、自分で「わかりにいく」ことを見いだしました。
(林直哉+松本美須々ヶ丘高校・放送部『ニュースがまちがった日』 p.17)

どんな小さな「歯車」でも、一人ひとりが放送部に存在する必要を感じ、裏方の仕事にやりがいを感じてこそ、つぎの作品制作という「オンステージ」で活躍できる。
(同 p.21)

日本では先生も生徒も、「学校」という固定観念から抜け出せないように感じる。すべての人たちが、自分の過ごした生徒としてのイメージで「学校」を批評する。社会がもつ「学校とは」という固定観念に、学校自体がずっと縛られてきたように感じられてならない。
(同 p.22)

「ニュース原稿については責められても、映像の表現についてはクレームのだしようがないね」
確かに「映像の文法」については、解説書もなく評価の方法も確立していない。
(同 p.56)

テレビ局は取材はするが、取材されることは少ない。取材依頼は、ほかの作品制作とは比べものにならないほど骨の折れる作業だった。自分たちは電話一本で取材に来るのに、反対の立場になると、どうしてこれほど慎重になるのか。作品化されることに影響力があることを知っているからか、それとも自分たちは絶対に取材される対象にならないと決めているのか。
(同 p.66〜67)

「ブラウン管という機械が伝えているみたいに思えて、キャスターもアナウンサーも普通の人に見えないんだよ。そこに『人間の痛みとか温かみ』なんて言うから、おかしいんじゃないですか」
〔中略〕
確かにテレビ報道は「私とあなた」という一人称と二人称の関係から大きく外れている。
(同 p.98)

「見方が強まっている」ことは、「事実のようで事実でない」ということです。
(同 p.144)

必要以上に自主規制がおこなわれているようにみえるマスメディアに対し、「さらなる制約」を外部から設けることは、けっして得策ではない
(同 p.150)

放送の特性は、電波にのって多くの人間が同時にその画面を見るところにある。しかし、一回放送された素材をだれもあとで確認できないとしたら、それはコミュニケーション・ツールとしてきわめて不完全ではないか。
(同 p.152)

ひとりの人間が完全にあらゆる場所をまわってあらゆる人に取材をして、それをレポートするというのなら、自分が知り、確認した情報しか原稿にしません。
(同 p.170)

テレビメディアは「他人の批判は得意でも、自分が批判されることに慣れていない」「批判にとても弱い」
〔中略〕
マスメディアを批判することは簡単だ。しかし、批判すればするほど、マスメディアは閉じてしまい、かたくなになっていく。「批判を受け止めて変わるだけの懐の深さはない」と見切りをつけるしかなかった。
(同 p.192)

彼らはメディア・リテラシーをかじることで「ニュースの構成・演出はダメ」という呪文にでもかかったように、「抜き出すこと」「切り取ること」に難色を示すようになっていった。
〔中略〕
しかし、この壁は、マスメディアに対するメディア・リテラシーを学習する過程で、だれもがかかる麻疹みたいなものだ。
(同 p.227〜228)

テレビの他チャンネル化、デジタル化が進むほど、地上波・地方局の存在価値が問われ、より地域と密着した局の経営が求められる。「密着」とは、送りだす番組を中心としたコンテンツだけでなく、その番組をどう見てもらうのかという取り組みもふくんである。
(同 p.234)