さくら、咲きますように

昨夜のこと。

街なかの居酒屋で軽く〈独り呑み〉した後、いつもの流れで電車に乗った。
1両編成の車内は、ほどよく人が入っている。ガラガラでもなく、立ち客がいるでもなく。
さっと車内を見渡し、4人ボックスの空席を見つけ、腰掛ける。
斜め前には、黒いピーコートをはおった少女が一人。
セーラー服が見え隠れするところから察するに、沿線の高校生なのだろう。
風邪だろうか。少女の表情はマスクで覆われ、窺うことができない。
電車が動き出す。最寄り駅までは約8分の行程だ。
少女はおもむろに、かばんの中から参考書を取り出す。表紙には『化学I』。
電車は進む。ひと駅め、ふた駅め……
参考書をめくる透明な指先を、私は目で追う。
不思議だった。少女の視線は、淡々と参考書を追っているのだ。
マスクをしているのに、咳ひとつすることなく。
頭の中に、週末に聞いた知人の言葉が甦る。
――東京行ったら、みんな電車んなかでマスクしてるんやわ。風邪引かないように――
なるほどな。受験生だったのか。
酒のせいか、熱っぽくなった意識の中で、私は自問自答する。
いや、確認したわけではないから、あくまで推測なのだけど。
もう一度、少女に視線を向ける。
かばんの脇には、駅ナカのパン屋とおぼしき青いビニールバッグ。
夜食にするのだろうか。少女の夜は長そうだ。
――さくら、咲きますように――
そんな言葉が、熱っぽい意識の中をかけめぐる。
誰かのさくらが咲けば、誰かのさくらは散る。
受験なんて、そんなものなのに。みんなにさくらは咲かないのに。
電車がホームに滑り込む。
彼女とも、これでお別れだ。もう、きっと会うことはない。
――さくら、咲きますように――
熱っぽい意識をすりぬけていくテールランプを追いながら、私は繰り返す。
つぎの春を笑顔で迎えた少女の瞳を、思い浮かべて。


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